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文化

先日尋ねていった絵本屋さんの店長さんが、わらべ歌の講座を開いているというので、いってきた。
誰かにものを習いたいと思ったのは久しぶりのことだった。
私に必要なものがぎっしりと詰まっている気がした。

あやとりをしていたら、昔取った杵柄ってやつで、一度やったらつるつると思い出した。
手が、もう勝手に4段はしごを組んでいる。

それをすかさず、先生が
「それが文化」とおっしゃった。
直球が飛んできた、そんな感じだった。

帰り道々、暗いまっすぐな道を車を走らせながら、いろいろな考えがつながってきた。

シュタイナーの本を読めばかならずでてくるエーテル体、という言葉がある。
いきものの生命の土台となる力というか、場というかその辺はうまく言えないのだけど。
人が「生きる」という行為を成し遂げるに必要なもの、
心臓が脈打つこともちろんそうだし、それだけでなく、
たとえば習慣とか、その人の基調、
あるいは、生きることの場に生まれる無意識の癖。

私がわすれていたあやとりの業を、私の深い無意識であるか、身体であるかは決して忘れてはいなかった。精神医学の用語でいうなら、手続記憶、というもの。一度乗れるようになった自転車の乗り方とかとおなじ。

その「文化」という言葉の的確さというか、リアリティに圧倒されたのだ。
私は誰からこのあやとりを教えてもらったのだろうか?
そして私は誰かにまた伝えるかもしれない。
そうやって、綿々と手続記憶、エーテルの領域に潜って伝えられていく、もの言わぬものたち。
形のないもの、けれども、私の中にあったその技。

これが文化なのか。
私とともに、私の感情ではなく、もっと深い生命の領域に生息する、あやとりの文化。

幼い頃、飽きることなく何度も何度も繰り返していたに違いない(おまりおぼえてないけれど)そうやって私の生命に刻印されていったのだろう。この美しい仕草は。

**************
シュタイナー教育にまたすこし関わり始めていた私なのだが、正直、このあやとりの文化のまだ足下にも及ばないのではないかと思った。

エーテルに働きかけるって、本来はこういうことなんだ、とおもう。

私の音楽にしても然り。

私が私の中で確実に文化となり、生命と一体になったものだけが、おそらく本当に、子ども達の心にも届くのだろう。
まだまだ、付け焼き刃の自分を恥じいった。
せっかくあった、このあやとりの文化を自分がないがしろにしてきたことにも気がついた。
これからは、あのあやとりの技のように、身の内側から自然と湧いてくるような、そういうものをもっと増やしていこう。

生命に関わるものを、教えたい、と思った。










「おと〜音楽へ」のこれからについて

しばらくぶりです。

実はこの「おと〜音楽へ」をやめようかと思っていたのですが、
内容を限定して、続けていくことにしました。
教室関連のこと、音楽関連のことは、という教室日記を立てましたので、これからはそちらに書いていくことになります。

そこに至った経緯

教室の方、グループレッスンを取り入れた新しいレッスン方法にしたことをきっかけに、自分押したい方向性がすこしはっきりしてきて、でも、それはうまく言葉にならなくて・・というよりも、言葉よりまず行動、という気がして、自分と向き合う、自分の言葉と向き合う、ということから遠ざかっていたのでした。


インターネットとのおつきあいの仕方も、いろいろやれるものはやってみて、まああまりこれに入れあげて時間を取られすぎるのも、こまる、と思いながら、いろいろ模索してみました。

その中でこの「おと〜音楽へ」の存在意義があるのかどうかとか、そういうことも割とずっと考えていたのです。
教室日記みたいなブログを別に立てていて、最初は軽いインフォメーションツールくらいに考えていたのですが、それって、表面的にはきれいだけど自分としてどうよ、ちょっとうそっぽくならない?みたいなジレンマがあって、じゃあ、いっそここで書いてきたことを全部、そっちでやってしまえば、いいじゃん、そもそも、二つも日記を書くなんて変、とおもって、いっそじゃあ、そっちへ引っ越そうかとも考えたのでした。

だけど思い切れない。
今でも記事を書くと、300くらいはアクセスが来ていて、それはほんとに私にとってありがたいことで、こんな私のたわごとに、興味を持ってくださる人がいるというのは、どっか、支えにもなってきています。
わたしはこのブログでは、可能な限り嘘のない自分でいたかったし、それ、一般的にどうよと思われるようなことでも、書いてきたし、唯我独尊誰もなんも言わんのをよいことに持論を思いっきりのびのび展開してきました。

もう一つの教室日記の方は、格好つけて、というよりは読む人があまり負担にならないように、ある程度、先生としてのモラルというか、良心にのっとって、あまり、混沌していたり、うにょうにょしすぎる(こんなかんじのね)文章は美しくない気がする。。としたらもっとソフィスティケートされた「おと〜音楽へ」になるのかな。

変な言い方かもしれないけど、ある程度「完成品」としての「場」になってくる。

でも
そうそう、わたしのなかで、「でも、」という答えが必ず跳ね返ってきてしまうのです。何度考えてみても。

私って基本とっても変なやつだし、全然かわいげのない大人だし、臆病者だし、ものすごい攻撃性を内に秘めている。そして、実はいつも迷っている。
つまりはこれをどうしても切り捨てられない、というわけ。

それで、そういう部分だけをここに残して綴っていこうと思ったのです。

だからきっとほんとにつまらないものになると思います。でも、よかったら、また読んでください。
たまにしか書けないかもしれません。でも、書きます。
今まで以上に荒唐無稽なものになると思います。業務日誌を分けたことでさらに、のびのびするに決まっています。

音楽関連記事は、これからは 台(うてな)http://utemamuse.sblo.jp のほうに書いていきますので併せて、よろしくお願いします。
自分のピアノの録音は、両方にのせたいです。ただ、しばらくはその余裕がないですが。いつかまた。


気持ちの持続と、曲の長さ [初心者のためのテキスト作成]

生徒の気持ちの持続の度合いによって、曲の長さをきめる方がいいと、おもいます。
なかなか一人ひとりを見極めるのは難しいのではありますが・・・

同じ年頃の子でも、8小節で手一杯の子もいれば、16小節でも物足りない子もいます。
ある程度の年齢にも関わらず、8小節が手一杯の生徒は、音楽としてのまとまりを感じる事が難しい、という事があるように思います。

男の子なんかだと、1ページの曲では物足りず、2ページ3ページで「やってる」という実感か初めて掴める子もいます。そういうこに16小節の曲で我慢しろというのもまた、酷な話です。

今、その子に最適の長さの曲を見つける事ができたら、相当の事がクリアできた事になります。教えるのも楽です。

うちでつかっている一番最初のテキスト「おとえほん」(教室オリジナルです)は
ひとフレーズだけで1ページになっています。
子ども達は、音の羅列ではなく、音と音がどんな風に並んでいるか、に関心を寄せられるようになっています。
ひとフレーズだけど、その中にぎっしり音楽としての基礎は詰め込んであります。

就学前の子どもだったら、このくらいで十分。
この中からいかに多くの情報を汲み取るか、と言う事が大事です。

一方でわらべ歌ややなんやらで、長い曲を感じる事にも慣れるようにしています。


8小節までで気持ちが切れてしまう子には、そこからのアプローチの仕方もありますが、それまでに、音のリアリティと、そのリアリティが本人の体験の中で持続していく事を知識ではなく、いわば「土壌」として育てていく事が幼児期には大事で、それが、少しでも長い持続力へとつながっていくものだと信じてやっています。
おとえほんで培った体験としてのピアノをその集中(・・と言ってもお楽しみの集中ね)の度合い、その濃さのままに、つぎへつなげるために、いま、その続きを書いているところです。

どの生徒さんでも、2ページくらいはずっと楽しめるくらいでないとな、ほんとに面白くならないです。

おおきなかぶ とゼクエンツ [かたちとちから]

おおきなかぶ、というお話があります。

たいていどの幼稚園のお子さんもしっているので、よくお話しされるのでしょう。

おじいさんが蕪を引っ張って、まだまだ蕪は抜けません。
おじいさんをおばあさんが引っ張って でもまだまだ蕪はぬけません。
。。。。と、そのうしろを 孫が、犬が、猫が、・・・・というお話。


多分ロシアのお話だったと思うのですが、ちょっとうろおぼえ。

同じパターンのお話で、「てぶくろ」というのもありますね。

あと、桃太郎なんかもそうで、

同じパターンを何度も少しバリエーションを加えながら、繰り返して、
そしてそれが積み重なって・・・・う〜ん どきどきする。


これは、音楽用語で ゼクエンツというのがあるのですが、同じ音形を一音づつ、ずらしながら進んでいくものですが、気分的にはとってもよくにた効果がある気がします。「あらののはてに」のグローーーーーリア、というところがそうです。

小さな子どもというのは、言葉をおぼえるとき、まず一語から使い始め、やがて二語になり、そうやって話し言葉をおぼえていきます。たいてい、二語 三語あればなんとか話しは通じますよね。

でも、ものごとを思考するためには、それでは、全然足りなくなります。言葉を組み立てるためには、「表象」というものが必要で、心の中で、「意味」を形にしていかなければならない。

そこで必要になってくるのが、そうした「表象」のベースになる、「透明な記憶力」とでも言えばいいのでしょうか。遠くまでいける道が必要になってくると思います。

「おおきなかぶ」や「ゼクエンツ」というかたち、あるいはちからは、その、透明な記憶力を育てるのではないかしら、と思いました。

うてなスケッチで関わっているのもそういう事だと思います。

*******
たとえば「おおきなかぶ」を子ども達に伝えるとき、

アニメーション、 絵本、ペープサート、語り、 いろんな方法があると思いますが、この透明な記憶力、という観点からいくと、目の前にある情報は少ないほど子どもの心は盛んに想像力を働かせます。
ただ、そこには、能動性が関わってくるし、そもそもその透明な記憶力の萌芽がないと、結果だけ追いかける事になってしまいます。アニメーションが一番楽ですね。 でもそれでいいのかなって思います。


それを思うと、うてなスケッチもつかいかた次第で、逆に子どもを受け身にさせてしまうということもあるかもしれません。





ロマネスコブロッコリー [かたちとちから]

昔、隣町の大学の図書館で借りてきて、大きな衝撃を受けた本に
ルネユイグ というフランス美術史家の「かたちとちから」というのがあります。

おそらく、うてなスケッチが生まれるまでに、この本の印象は大きく私に作用しているとおもいます。

ただ、もうその本はその図書館にもなく、古本で購入すると1万円を超すので高嶺の花になってしまいました。

それで、私なりに、「かたちとちから」を再編してみようと思い立ちました。
いやいや、さほど深い思いがあっての事でもないのですが、
珊瑚礁ブロッコリー(ロマネスコブロッコリーともいうらしいです)の美しい写真が撮れたので、
こういうのを見ながら音楽について考えてみるのもいいかなと。
IMG_1635.JPG
































IMG_1636.JPG
































こういうのを確かフラクタルというのだったと思って調べたら、Wikipediaでは、まさにこの野菜の画像が添えてありました。

ゆでて、サラダで食べましたよ。今日のお弁当にも入れました。
お弁当から広がるフラクタル!

フラクタルという形は、出口を必要としていなくて、力がどんどん拡散していくかんじなので、あまり、音楽の中でこれを感じるものはないかな?ネオルネッサンスなんかどうでしょう?
アルボ・ペルトの合唱の中でたくさんの声部を重ねて独特の効果を出しているものがありますが、ちょっと、そんなかんじかしら。 


ショパンのソナタ第3番その後 [いととはりのピアノ練習帳]

やっと 4楽章の譜読みが最後までいったところ。
パデレフスキ版で 43ページありました。
1時間程度の練習時間で、この量は無理があると言えばそうなのですが、でも弾きたい私。

1楽章の練習で、ゆっくり音の流れを理解して、最初からミスを最小に押さえていく、という方法ではじめたのですが、その後、どうだったかというと・・・・

実際、ゆっくりでミスが4.5カ所というくらいまでいったのですが、テンポをあげ、気持ちも入ってくると、その弾き方では全然対応できなくなってきました。

動きの大きな場所では、ゆっくり弾くのと相応の速さで弾くのとでは、動きが全く違ってくるから、ということと、響きだけを念頭に入れて弾くのと、音楽的な流れの中で弾くのともまた違ってきます。そこで、ミスを恐れて次へ進まないのも違う感じがしてきて、それまでしてきた事は一度、忘れて、部分練習をやっていくことにしました。

それでも、それまでの練習の中で、細やかな動きのところとか、繊細な和音などは、耳と身体の方が誘導してくれるようになっていて、ききながら弾く(当然と言えば当然なんですが、それがなかなかできない)余裕がもてるようになっていると思います。

2.3.4楽章は1楽章に比べ、ぐっとシンプルな作りになっているので、メロディハーモニーの妙を楽しみながらやっています。特に4楽章は響きが面白い。

という事で、まだ半年かかるかな。。。。




拍 とは 時間とは  [新しいレッスンスタイルで]

新しいレッスンになって一ヶ月が過ぎました。
まだ生徒さん達や保護者の方達の直接的な反応はおききしてはいないのですが、
私の手応えとしては、やっぱりこれでいこうと思えるものになってきました。

何人かの生徒は、音が既にかわってきています。なんというか、気楽に音楽と関わり始めたのかな、という感じ。
男の子の方が反応が早いですね。男の子のほうがこういう事は向いているのかもしれません。

今週のグループレッスンでは、「拍」のことをしました。

レッスンをしていて、坂道を転がり落ちるような演奏とか、息を止めて一気に弾いてしまうような演奏をする生徒に
「もっとこう、余裕を持ってさあ・・」といってもなかなかどうする事もできないらしいのですが、これは私はずっと気になっていた事でしたから、ナンでそうなるんだろうといろいろ考えました。

「身体」という側面からもいろいろ思い当たる事があります。体をほぐす練習とか、息を体にゆっくりたっぷり入れる練習とかも、これからやっていきたい事なのですが、「音楽をつくる」という側から眺めたとき、下り坂現象は「拍」の感覚がないために、ずるずると引きずられてしまったり、一曲が固まりのようになってしまったりするのだと思います。今週いろいろ生徒の様子を見ていてますますそう思いました。

また、うちの生徒には少ないのですが、時々見かける(コンクールなどで)機械的な拍の取り方、あれも、「拍」をどう捉えるかというところにその原因があるような感じがします。

ピアノは両手で弾くものだから、当然右と左で違う事をしないといけないのだけど、微妙な左右の掛け合いなど、楽しむためには、相当に柔軟な感覚をもっている必要がありますが、そこに関わってくるのが「拍」の捉え方なのではないかと思います。

どんな風に生徒に伝えようか、と、
いざ子ども達をまえにして、あ、っと思った事がありました。
一般的には「拍」は「一定の速さで時間を刻む」という感じで言われていてわたしもそう習った気がしたのですが、そうなのでしょうか?これは音楽を俯瞰し客観的に眺めた状態の言い方ですね。
「体験、理解」を前提とするのが私のやり方なので、これは
「頭でっかち」な表現だからしたくないなと思ったのです。

でこんな話しになってしまう。
「いまってさあ、今しかないよね。」時間っていうものが何なのか実はみんな知らない。
さて、じゃあなんなんだ、拍は。

「時間と一緒に一定の速さで、有機的に生まれてくるもの」
この表現があってるかどうかは分かりませんが私としてはせいいっぱいの表現です。

生徒達に自分の脈をとってもらいました。
それがあなたの一つの「拍」どのくらい?
「とんとんとんとん」と適当にオノマトペで答える生徒
「そうじゃなくてさ、自分の拍にあわせていってみてご覧」
これが意外と難しい、というか、簡単なんだけど、やってみた事がなかったのね、すごく意外でした。
自分の心臓の音に聞き入る生徒。
「とん、とん、とんとん、とん、」
みんな少しづつはやさがちがう。

それから、四分音符が一列に並んだ絵を見せて一緒に叩いてみました。
最初はばらばら、何度かやってみてあってきます。

「これが音楽の拍です」
****************************

ずっとまえになりますが、
変な事に気がついたのです。
確か昼寝をしていたときです。

私は今、そしていま、いつもいま、時間の先端にいるのだ、と。

何とも言えないのですが、本当にそう思ったのです。
すごい発見のように。
そういう事を子ども達に伝えたい、
なぜかとても伝えたいのです。









年中さんにグレゴリオ聖歌を [レッスンノート]

昨日は年中さんのグループセッションでした。

新しい試みとして、以前からやりたかった、グレゴリオ聖歌の 「キリエ エレイソン」を一緒に歌いました。

グレゴリオ聖歌は13世紀頃から始まるふるい宗教音楽で、現存する楽譜としても最古のものがあります。
ひとつにはそういう音楽の源泉に触れてほしいというのもあります。
ほかにもこの曲を挿入した理由がたくさんあります。

アンティフォニー(交唱)の形をとっている事、少し対話のようでもあります。西洋音楽ではここから対位法への萌芽が芽生えました。先生と向き合って、これがきちんと歌えるようになる、というのは大きな体験を生むのではないかと思ったのです。

メリスマという手法。歌詞の一音を長く伸ばしてメロディ化しているのをメリスマと言いますが、これは昔は日本の曲にもおおくあります。
私のわらべ歌のレパートリーの中に「やっとこやまだの白いぬこ」というのがありますが、これはメリスマがそのまま犬の遠吠えのようになっていて、面白い曲です。
音楽を点と捉えがちな現代の子ども達にとって、これは少し根気がいる曲ですね。
今回取り入れたのは、もう長い事グループセッションに参加してくれている子が二人いて、なかなかよい集中をしてくれるようになって来ているからできた、ということもあります。そもそも受け取ってもらえるのが難しいと思っていたのですが、結果は良好でした。

もちろん、まだ実際 交唱 となるには何度も練習が必要ですが、おもしろがってなおかつまじめに受け取ってくれたところがよかったと思います。たまたま、参加した子がひとり「今日はカーテンをおろしてやってみよう」と言い出して、そうして見ると、ちょっと厳かな感じになって、いい場ができていたこともあるかもしれません。

日本語の歌詞をつけようかとも思ったのですが、この曲の空気感を損ねそうなので、やめました。
日本のわらべ歌は、宗教的な事に関してとてもアイロニカルで、崇高な、という気分を味わう事ができないんですね。ちょっと怖い、というのはたくさんあるのですが、崇高、という気分はちょっとない。そういう意味でも、グレゴリオ聖歌はもう、そのまま歌ってしまおうと思いました。

日本語のうたは、別に作ってみようかと思っています。同じような手法で。







お茶が運ばれてくるまでに [本の感想1]

息子が、「これ」
と言ってみせてくれた本。

お茶が運ばれてくるまでに―A Book At Cafe (メディアワークス文庫)

お茶が運ばれてくるまでに―A Book At Cafe (メディアワークス文庫)



本当にお茶が運ばれてくるまえに読んでしまえる、絵本です。

読んでいて、涙が出てきました。
これを手に取った息子と、
これを子ども達のために書いてくださっている作者と。
私。

どこかでつながっている、と思えて。
なかなか大人の手の届かないところにある本ですが、もし、機会があったら読んでみてください。



壁の外 [がんばれ零細個人ピアノ教室]

グループレッスンを取り入れて、2週目になりました。
生徒達にも、私の考え方が何となく分かり始めてきたようです。
約束事を書いた紙を、ノートに貼付けるようにお願いしていたのですが、かなりの生徒がそれをしてくれていて、わざわざ見せてくれた子もいます。

多くの生徒達は、この約束事を、楽しんで受け入れてくれたようです。

昨日は、とてもうれしい事がありました。

ずっと受け身でいわれるだけ、言われた事も心にとどまらず、そのとき何かひらめいた事も、つぎの週には色あせてしまう、というレッスンを受けていた生徒が、昨日は、ずいぶんまえのやりかけのテクニック練習(300回で来たら、プレゼントがもらえる事になっています)を思い出して、300個の○をつけてきていました。、これ、きっと約束事の紙を貼ろうとしてノートをあけて思い出したのね。どんな練習だったかをおぼえてるという事は、ちょっと面白いと思っていたのかもしれない。

そうそう、私が言いたいのは、ずっと言いたかったのはそこなんだよ。じぶんが思うようにすればいい。

自発性、というのは、幼い子にとって、時にとても厄介なものです。じぶんが思うようにすると、人に嫌われる。特にこの土地は風習としてそういう気分がもう普通にあって、自発性に対して、お友達の自発性がぶつかってくればそれなりに学習もできるのだけれど、どこか見えないところで作用して、気がつくと、向き合ってくれる人がいない事に気がつく。できるだけ、自分というのものは出さない方が、「賢い」のだと、学習していく・・・そうやって「きく」事も怖がってできなくなってしまう。

例えば、の話しですが、こういう経験は、ものを学ぶのに、ものすごく邪魔をしてしまいます。

本来、思いつきやひらめきで輝いていた子が、輝きを失っていくのを見るのは、こちらも辛い。レッスンも、その子にとっては自分を守る壁の外でしかない、ということから、もう何年も進展がないままでした。

何をしても、人から見ると、だめ、なのではなくて、取捨選択していけばいい。人の話しをよく聞いて、それが自分にとって、必要な事なのか、そうでないのか、選ぶために、相手のいっている事の意味を知ろうと努力した方がいい。自分自身のために。

やっと、言葉が少し、届いた気がしました。

レッスンノートにはびっしりと、今日レッスンで話し合った事が書いてありました。「。」がなく、どこまでも「、」で言葉があふれて連なって出てきているようでした。


いま、生徒達に「寄り添うのではなく、向き合う」ことで、生徒達が自分を取り戻すきっかけになってくれたらいいとおもいます。まちがっていたら、間違ってると言ってあげるから、思い切り自分を試してご覧。




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